「はま食品」は、ジーマーミ豆腐一筋で作り続けて40年。沖縄で最初のジーマーミ豆腐専門店です。
「はま食品」のスタートは、沖縄で海洋博(「沖縄国際海洋博覧会」)が開催された1975年。創業者の大浜りつ子が自分の小遣い稼ぎに、と軽い気持ちで始めたのが最初でした。

創業者が生まれ育った宮城家
那覇市久米で親戚が開いていた「ひるぎ」という郷土料理店で手作りのジーマーミ豆腐を出したところ、その素朴な味わいが評判となり、牧志公設市場や地元の商店での取り扱いや、地元の料亭との取引が始まりました。その当時は料亭へは湯呑みに入れて、商店ではプラカップにホッチキス止めという、今では考えられないような形での販売でした。
「ひるぎ」が立ち退きにより閉店が決まったタイミングで、ジーマーミ豆腐を本格的に広めたいと考えた創業者のりつ子は、県内のホテル等に自ら営業を行い、多くのホテルやデパートに卸すようになりました。当時、ジーマーミ豆腐を製造して卸すお店は無かったので、自ら商品を作りそして自ら配達する形で切り開き、ジーマーミ豆腐専門店の走りとなったのです。

創業者・大浜りつ子の若かりし頃
その後、県内でも多くのジーマーミ豆腐店が登場し、機械を導入して工場で大量生産をするメーカーも出てきましたが、「はま食品」では手造りにこだわり、家族だけで創業当時のレシピを守り続けて今に至ります。
そのため、一定量の納品が必要な大型スーパーやホテル、空港を始めとした沖縄物産店などの取引は諦め、この味を好んでいただける方にだけお届けしています。
現在では沖縄県内の限られたスーパーや商店、料亭や沖縄料理店の他、デパートの贈答品としても使われています。
沖縄県外では、沖縄県の公式アンテナショップ「わしたショップ」や、東京都内にある高級沖縄懐石料理店などで取り扱っていただいています。
「はま食品」のレシピは、創業者の母である宮城文から受け継いだレシピです。
創業者の母・宮城文
宮城文 みやぎ-ふみ
1891-1990 大正-昭和時代の教育者,郷土史家。
明治24年11月28日生まれ。登野城(とのしろ)小学校をはじめ郷里沖縄県八重山の各校で教師をつとめる。戦後,昭和23年女性初の石垣市議会議員となる。48年「八重山生活誌」で第1回伊波普猷(ふゆう)賞を受賞。「石垣方言辞典」を完成させた宮城信勇の母。平成2年2月4日死去。98歳。沖縄第一高女卒。(コトバンクより)
宮城文は、戦前より石垣島で教育者として活躍し、戦後は女性初の石垣市議会議員を経て、昭和47年に八重山地方の文化をまとめた「八重山生活誌」を執筆しました。その本は八重山の衣食住や人生儀礼など体験をまじえて叙述したもので、明治・大正期の八重山の生活を知る上で欠かせない文献として、今でも多くの研究者に愛読されています。まさに八重山の民俗学の母とも言える存在です。
石垣島でなぜジーマーミ豆腐が良く食べられたかというと、昔から石垣島では落花生が栽培されたからです。実際に創業者の実家のすぐ傍でも栽培されていました。
当時はそれぞれの家で自家製のジーマーミ豆腐を作り食べていた他、お祝い事などでは串に刺して塩茹でをして紅白に色付けしたものを作って出していたと言いますが、こうした食文化は徐々に失われていきました。
こうした現状を憂い八重山の文化を何とか受け継ぎたいという想いから、「八重山生活誌」が生まれたと聞いています。
その宮城文が家庭で作っていたジーマーミ豆腐のレシピ、その昔ながらの受け継がれた味を、娘である創業者のりつ子は”はま食品のジーマーミ豆腐”として、創業から40年以上にわたり再現し続けているのです。
家族だけで日々作ることができる分のみを提供する”はま食品のジーマーミ豆腐”を、是非ご賞味下さい。